上手に「人と関わる」ためにこそ
「鈍感になる」訓練が必要
――先生はアメリカの大学で研究、教育に携わった後に、北海道大学を経て関西学院に着任されました。2023年度でご退職になる予定ですが、ここまで学生と接していて、どのようなことを感じましたか。
私は、この大学に来て初めて学部生にフィールドワークを指導したんですね。そこで分かったことは、教員が「とりえあえず行ってこい」という形で学生を放り出すのはよくないということです。聞き取りに行った先で怖い思いをするかもしれないし、そもそもそこがどういう場所であるのかを学生が理解していないかもしれない。だから、まずは私がフィールドの方々に連絡をとって、その上で学生たちにアポイントを取らせたり、フィールドワークの最中も、何かあったらすぐ駆けつけられるようにしておいたりしなければいけない。
ときどき、学生たちに前もって何も伝えずにフィールドに出す先生がいます。ですが、事前に十分な準備とレクチャーをして方向性を決めておかないと、学生たちは何をしていいか分からないですよね。
いま神戸市の長田区で実習をしているのですが、こうした指導の仕方がようやく分かってきたところで退職というのが残念なところです。
――学生の側にとってはどうでしょう。フィールドワークを通じて変わるところはあるんでしょうか。
文化人類学では、フィールドに深く入り込みすぎてしまって、現地の人とまったく同じような人間になってしまうことを “going native”という風に言います。でも、実際には相手と同じようになることはほぼ不可能なわけですし、それを目指すべきではありません。ただ、交流を深めていく中で、先ほど話したように自分自身を見つめ直していくと、だんだんと自分のことを疑うようになってきます。いままで自分が思っていた「当たり前」が、当たり前でなくなってくるからです。
言ってみれば、「白」と「黒」という二項対立があったとして、その狭間でグレーな存在になることがフィールドワークでは大切ですね。このグレー・ゾーンを文化人類学では「リミナリティ(境界状態)」と呼びます。リミナルな状態というのは、白黒はっきりしないから不安なんですね。しかしながらフィールドとの関わりを通じて、その灰色の状態に耐えられるようになるというのは、学問ばかりでなく人間の成長としても大きいと思います。
――今日のお話の中で、何度か異文化と接して自分も変わるという話が出ましたが、まさにその自分が変わる体験が、「灰色の自分に耐える」ということですよね。しかし一方で、そうした体験は、なんと言いますか「コスパ」が悪いようにも見えます。自分が変わるとかそういう話はどうでもいいから、手っ取り早く知識だけ身に付けられればいいという人もいるのではないでしょうか。
世界に目を向けてみると、異文化理解は大事だと口ではと言いつつも、むしろ異なる文化、異なる考え方の人とは相容れなくていい、ブロックしてしまえばいいという「分断」が深まっているように見えることと、この話は関係するかもしれません。敵と味方、友人と他人、自国民と外国人といった形で安易に線を引いてしまいがちな時代に、文化人類学を生きるということは、どのように貢献できると思われますか?
先ほど申し上げた通り、文化人類学の専門家になる人は多くなくていい。むしろ文化人類学は、社会を生きるひとつの「教養」としての意義を発揮することができると思います。
他者に関心のない人、自省することのない人は、どこか無知で傲慢だと思うんです。私たちは人間として生きている限り、どこかで成長したいと思っている。人間は社会的存在ですから、成長するためには人と関わらなければならない。その関わりで傷つくこともあるかもしれないけれど、それがないと自分が成長することはできない。
勉強だって、最初から好きで仕方がないという人は少ない。でも、嫌だなあ、遊びたいなあと思いながらも仕方なく勉強しているうちに、その面白さが体でわかってくるということがある。だから、社会的存在である人間として成長したかったら、ある程度は他者と関わってみなさいと言いたいんです。
フィールドに学生を送り出してみると、彼らもいい意味で「鈍感」になっていくんです。聞き取りの最中に嫌な思いをして、最初は「えー、こんな人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるんだけど、そのうちにだんだん面の皮が厚くなってくる。私はそれを「インセンシティビティ(鈍感)・トレーニング」と呼んでいるんですが、トレーニングだから、ある程度まで練習で上手になるんですね。
――人と関わるときに、むき出しのままの心で人と接すると、やっぱり傷ついてしまう。でもそうした傷が、いずれかさぶたのように傷跡を覆って、いい距離感で人と接することができるようになる。大人になる上で、そういう傷を負うことも大事ということでしょうか。
そうですね。他人と接するときに、相手のすべてを理解したり、自分のすべてを見せたりするのは無理です。たとえ長年連れ添った夫婦であってもです。
若いうちは「やりたいこと」と「やりたくないこと」に物事を分けがちですよね。確かに本当に「やりたくないこと」はやらないほうがいい。苦痛なだけですから。でも、両者の間に「やってもいいこと」というのがあると思うんですよ。「人と関わる」というのは多くの人にとって「やってもいいこと」に入るんじゃないかと思います。「やってもいいこと」を上手にできるようになるためのステップとして、「鈍感になる」訓練が必要なんだと思います。
文化人類学は、すぐ結果が出たり、お金になったりするものではない。その意味で「スローサイエンス」だと思います。特にフィールドではお互いに傷ついたりすることもある。だからコスパが悪い。でも、大学生のうちに、そういう「コスパの悪いもの」にも意味があるんだと悟ることが、この時代に、対面で大学に通うということの意義なんじゃないでしょうか。